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著者がこの本を書くとき、きっと明確な「意図」があったはずだ……。だが、その意図にふさわしい心構えでページを開いたかというと、正直そうではなかった。最近、うつ病を抱える兄が、とんでもない額の借金をして株で全てを失うという出来事があった。その後、問題を解決しようとする意思もなく、自暴自棄のようにデリバリーと睡眠を繰り返す兄の姿をずっと傍で見てきた私は、すでに自己憐憫、受動的攻撃性、自己正当化といったものにうんざりしていた。もちろん、一番つらいのは本人だ。しかし、周囲の人間もまた一緒に苦しくなる。
今の私は、うつ病の人を本当に救えるのは、その人を愛する関係性の中にある誰かの強い忍耐と、そこから引き上げようとする積極性だと思っている。そう、うつ病の人を支えるのは「誰でもいい」わけではなく、その人と愛情のある関係にある人でなければならない。
だが家族であり弟である私は、兄にとって数多くの「誰でもない人」の一人でしかなかった。もしきれいな女性が同じ言葉をかけたなら、兄はきっと、いや確実に耳を傾けただろう。だが同じ屋根の下に住む私は、何を言っても兄の心には何ひとつ届かなかった。
何が間違っているのか目に見えているのに、自分にはそれを変える力がないという事実は、本当に苦しかった。そして、この幼稚で無責任な行動が、今まで一生懸命生きてきた両親の老後に大きな影を落とすかもしれないという不安が、その苦しみをさらに増幅させていた。
そんなひねくれた、疲れ切った心で、私は『死にたいけどトッポッキは食べたい』を読み始めた。
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『死にたいけどトッポッキは食べたい』は、うつを抱える人の心を、一切の脚色なく、そのままにさらけ出している本だった。
映画やドラマには、視聴者がどの立場で物語に没入すべきかを示すための装置が多く存在する。そのため、主人公の視点から語りを追うことは難しくない。しかし、そうした意図的な演出がまったく存在しないこの純度の高い本を読むと、私は正直、著者ではなく、著者の周囲の人物たちに共感してしまうことが多かった。今の自分の状況が、まさにそれを誘ったのだと思う。
うつというものは本当に巧妙だった。たとえ誰かがうつの現場をカメラで撮ったとしても、それを見た全ての人が理解できるわけではない。
ペク・セヒ(白世希)の語りを読んでいると、うつの多くは身体という境界の内側で、極めて密やかに起こっているのだということがわかった。外から見れば何の問題もないような状況でさえ、彼女は苦痛を感じていた。
彼女がつらかったのは、こういう点だったのだろうか。
彼女の「世界への願い」は、きっと途方もなく多かった。
その願いと少しでも違うことが起きれば、その出来事は心の中で巨大な刃となり、彼女を傷つけ始める。
しかしその願いは、具体的に満たされるべき「要求」ではなかった。
それは誰にも、何にも満たすことのできない、底の抜けた人生の壺のようなものだった。
彼女はそこに敏感さと不安を注ぎ込み、どうにか満たそうとするが、
どんなに注いでも満たされない根源的な空虚——
それこそが、彼女を執拗に苦しめているように見えた。
彼女は皮肉屋のように、特に何も望んでいないようにも見えたが、同時に、どこに向かうとも知れない小さな訴えをずっとつぶやき続けていた。まるで、何かを求めている人のように。
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最近、うつ病の新しい治療法を開発したスタンフォード大学のノーラン・ウィリアムズ教授が、自ら命を絶ったという知らせを聞いた。彼も、白世希も、うつの本質を理解していなかったはずがない。それほど深く理解していた人でさえ、人生の最期までうつと折り合いをつけられなかったのだとしたら、私たちはいったい、うつに対してどのように向き合うべきなのだろうか。
インターネットには「うつ病の人に言ってはいけない言葉」といった、うつ病患者への共感を促し、周囲への注意を促す内容があふれている。実際、自分の状態がどうであれ、そのまま認められたいというのは、人間のごく自然な本能だ。「わかってもらえる」ということは、人が味わえる最も高揚する経験の一つだ。
だが、共感は欲求であって、解決策ではない。
もしうつ病が、外科手術のように明確で客観的な指標で治療できたら、どれほど良いだろう……。
実を言えば、私自身の土台にも、いつも薄い憂うつが敷かれている。しかし私はそれを簡単には口にできない。「目が悪くて(=視覚障害なんだ)」と言うと、「私も目悪いよ!」と軽く返されるように、私の憂うつも同じように扱われてしまうのが怖いのだ。